消えるKと青いアイツ

   助手に青べこがいます。

北野武監督『首-KUBI-』鑑賞 ※ネタバレ有

 

 

アウトレイジ最終章」以降6年ぶりとも広告で宣伝されていたので、にわかながら監督のファンならば劇場で直接見ねばなるまいと行ってきました。劇場に行くまでの道でずっと「ソナチネ」のメロディが流れていた。一番最初に見た作品ですし、他(といっても映画すべて踏襲しているわけではないです)とも毛色が違うと今でも思ってますんで。

最初こそ「世界のたけしが時代劇で男色モノを…?」と疑うレベルでしたが、織田信長を扱うということで「まぁ狂人で有名な第六天魔王ならあってもおかしくないか~」と妙に納得。「座頭市」でも近い要素盛り込んでましたしね。

 全体的に、あくまで個人での感覚ながら、決定している時代の流れに沿って「こんなことがあったんじゃないかな?」て思いついたものを詰めるだけ詰めた話のように感じました。誰が主人公かといわれると誰にも主軸が立ってないように感じるし、ともすれば監督自身の羽柴秀吉にも捉えられそうだけれども、フォーカスが弱い。注目度ならば登場人物すべてにあるように見えるし、やはりただの事象の陳列ともとれる。もちろん私の目が節穴なのかもしれませんけれど。
 相変わらず作品を通して何が言いたいのかわからない、しかしそこが北野武作品の魅力だとも思っています。過ぎ去っていくすべてに意味なんかなくたっていい。

 

※ネタバレありきで語ります。特に濃い部分は念のため色を薄い白に変えてあります。

 

 

■あらすじ

 時は戦国時代。織田信長加瀬亮)を天下人とする騒乱の世、荒木村重遠藤憲一)の謀反から物語は始まる。

 のっけから人が次々死ぬ。この光の速さで攻めてくる残虐性こそ北野作品。
 穏やかな現代と違って何が理由で首を刎ねられるかわからない時代なんで、やられる前にやるべしと反旗を翻したものの多勢で攻め入られてしまった村重は失意の中、説得にやってきた明智光秀西島秀俊)の計らいで死んだとみせかけて匿われる。2人は恋仲の関係だった。
 信長の家臣の一人たる羽柴秀吉ビートたけし)は毛利を落とせずやきもきしているところ、信長より跡目の話を聞き一層武勲に励むが、信長がはじめから息子の秀忠に跡目を譲るつもりだったことを知り憤慨する。その中で光秀の秘密を知った秀吉は、絶対に村重の首を取らんとする怒れる(イカれる)暴君を本能寺で討つ計画を光秀に持ち掛ける――

 

 とにかく、登場人物みんなおかしい(まともな人も脇にはいるけども)
まぁ次の瞬間には自分の首と胴体がおさらばしててもおかしくない状態が四六時中続いてるんで、そりゃぁ誰だって気も狂うよな…


■所感

 おのおのの配役になぜその人を選んだか?の疑問は深く考えるのはよしましょう。感覚で生きる世界、直感で決めることがあったのならそれがベストだったのでしょうし。
 ニチアサの特撮などが苦手な私、三次元のファンタジーはのめり込めない方なんで、男性同士の描写にはあえてツッコまない方向でいきます。世の多種恋愛を否定するわけではないです、決して。
 それにしても信長の脅威や武士の重みに恐々と震えてる村重(エンケンさん)という図が私の中でどうにもハマらないのは、任侠映画のイメージがあまりにも強いからだろうな。その他の気弱なキャラしかり。
 秀吉まわりのコントのような笑いを誘うシーンは戦ばかり続いてグロテスクな気分になる中でのいい緩和剤のようには感じましたが、そこを取り入れてしまったことで(秀吉を元百姓の観点から侍の仁義を理解できない人間に仕立て上げて)一個のドラマとしてのまとまりがなくなってしまったように思いました。光秀を駆り立てたのは実は恩義に厚いとの見方もされていた秀吉だったんじゃないか?の説を起用されたのは確かに面白かったけれども。
 上記に記した通り群像劇でも満足できるほうですが、起承転結を求める人にとってはすっきりしない感想を抱いたのではないでしょうか。実際、これ着地点どこにいくの?って見ている間ずっと気になってましたし。
(監督のことだから演じている秀吉の最期までちょっとヒネった見方を加えてやっちゃうんじゃないかな~と勘繰ったくらいでしたが考えすぎでしたね)
注目されていた村重の動向は……実際に観てください。

 

■かつての大河ドラマでは見せない『実際の光景』

 やりすぎているといわれれば確かにそうなんでしょうが、兵だろうと女子供だろうと区別なく落とされていく『首』の描写が生々しいです。ここまでやっちゃうか?な程。有名な監督の作品傾向を知っていれば苦手な方は見に行かないでしょうけど、包み隠さず徹底してやるならこれくらいはせんとなと言わんばかり。さすがにびっくりした。
しかし作中、戦規模の戦闘はおそらく3度以上はあって、合戦以外でもたくさん人が死にます。エキストラ大量投入。でもそれらはすぐに画面が主要人物に切り替わったりしてあっさりと過ぎ去っていきます。息をするみたいに当たり前の日常なんだな、と。
ここでは討ち取られるひとつの『首』を巡ってたくさんの無意味な『首』が刈り取られていきます。天下を狙う武将たちにとってトップの首はのし上がる為の道具であり、そこだけの世界でものを見るなら、農民や百姓らの存在は時に利用する案山子程度でしかない。
秀吉の弟たる秀長が川を渡る兄の背中にボソリと呟いた言葉にゾッとしました。

 

■出世に惑わされないもの

 抜け忍の曽呂利は里を抜けたことといい芸人をやっていることといい、その時代にあっては異色の存在ですね。鼻の利くままに命の危険を感じれば早々に去る、共にいた仲間を思いやるなど、世捨て人のような良さを醸しつつ。
(忍者の関わるシーンどれもかっこよかったですね、半蔵の活躍シーンギャグのつもりだったのかわからないけど、イケメンだったので気にしないことにした)
 織田軍勢しかり、秀吉の側近においてもしかり、隣の権力者の命を狙っている配下の多い中で、明智軍の配下は身を盾にして光秀を守り使命を全うした。なぜだか終盤の弔い合戦のシーンだけ輝いて見えました。盛り上がりだからかな。
彼らには『首』は必要なかった。恋に揺れながらも信長への忠義に全うしたかった光秀も結局は自ら首を差し出した。手柄の為に生きるつもりがなかったから。

 

■首を取らねば生きているのと同義

 共に暮らした仲間を手柄の為に刺殺した茂助にはのちに、殺した仲間の幻影が見えるようになります。もしかしたら生きているかもしれない。『首』を切り落としていないから。
 光秀の首を掲げて喜ぶ茂助を襲った百姓たちの中にかつて殺した仲間の顔があったのも、実は生きていたとかではなく、茂助の最期の瞬間に「そう見えた」んじゃないかと思っています。
 光秀が信長の首を持ち帰らねば討った証明ができないので焦っていたのと同じように、『首』がなければその人は死んでいない。
 『首』を大衆に見せて死を証明することに拘っていた茂助には、他の誰にも理解できない世界が見えていたかもしれません。首がなくたって天下は取ったもん勝ちだと激昂した(元百姓の)秀吉とは正反対に。

 

■これから見る方へ

・噂されるほどおっさんずラブはしていない(光秀と村重はともかく信長周りは忠誠か愛情かで意見分かれそう)
・秀吉は天下だけを狙っていてある意味蚊帳の外側
・誰に主軸をおいた話なのかはわからない。考えるな感じろ
・暴力と死傷描写が苦手な方にはおすすめできない。
・たけしファンなら見るべき。


■終わりに

 もう流石に映画ほどの作品は作られないかもしれないと勝手に残念がってましたけど、個人的にはとても面白いものを提供させてもらえました。こんなやり方もありなんだなと(ただ、監督のアーティスト性と知名度が影響するものだとも思ってるので、別の人が同じようにやっても同等の評価が得られたかどうかは不明なところ)
座頭市」も監督の世情に対するドライさが容赦なく放出されたものではありましたが、焦点と物語の軸がはっきりと明確に描かれてましたし、『首』はそこから180度くらいひっくりかえされたかのような、良い意味で迷走しました。逆にそれが狙いだったりしても面白い。
 ドラマ的創造性に芸人ならではの視点を加えた作品を生み出せる監督の感性が好きですし、今後のご活躍も期待しています。

 

 

 

 帰りに歩いてたら商店街の、しかも私が結構な距離まで近づいてるにも関わらず道端の土いじってるカラスが一羽いてびっくりしたな。奴らは本当に肝が据わっている。もし輪廻転生があり生まれ変わるならカラスもいいかもなぁ。