消えるKと青いアイツ

   助手に青べこがいます。

触れられない話題・反出生主義について

 

 わかってはいるんだ…特に時間的な余裕を得た今となっては完全に…

 

 スマホ依存症とやらになっていることに………

 

 うんと若い頃ならいざ知らず、今ではSNSの閲覧は控えめになり(俗に言うSNS疲れ、というやつ)、代わりにポイント収集目的でアプリを眺めている時間の方が多いと思う。一定まで溜めれば電子マネーと交換できるというサービスだ。
 ハロワで申請したアレコレの期間中、やっぱりお金への不安は拭えなくて落ち着かない結果、わずかながらの副業(これでも副業と呼べるのか?)に手を出したわけだが、やはり短期的に成果が上がるわけでもなく、ちょくちょくスマホを開いて見ているので閲覧時間を図れば相当の時間になっていると思う。見える機能はついていないが、見たくもない。
 ブルーライト軽減対策がされているスマホも出ているらしいが、持っているコレは中古で買ったものなので関係もないかもしれない。よって目は更に悪くなってるんじゃないかな。

 ちらりと覗いた依存症の経験を語る医療系のサイトには、閲覧する際の姿勢の悪さで骨格と連なり脳神経にも影響を及ぼすとあった。昔から片頭痛持ちだが、日ごろ感じるわずかな痛みにはこういった要因もあるのかもしれない。いや、多分確実にある。
 少しでも離れる努力をしてみた方がいいのではないかとも思うが、歩数でポイントを溜めるアプリも入れているのでつい身に着けて行動する癖が染みついてしまっている。

 いやあ、ついこの間テレビでやっていたスマホ依存の芸人に密着した番組を笑って見ている場合ではなかったな、ははは、

 …………はぁ…。

 

 

 ところで。

 私のような日々世間に対し恨み言を吐いている人間ならばわかってもらえるんじゃないかとも思うのだが、地上波では流さないような倫理ギリギリのテーマをよく取り扱う番組配信をようつべでよく閲覧している。
 最近気になっているのは時にこちら。

 

 

 

 生まれなければ苦痛を感じることもない。――『反出生主義』について。


 ざっくりと調べてみたところによるとその概念が生まれたのは21世紀が初だそうで、理性ある生物として本能的な繁殖を否定する哲学者の間で誕生害悪論とも呼ばれているらしい。
 知能を備え合理的に動く人間ならば、誕生において決定権を持ちえない子供に苦痛の多い人生を歩ませるべきではない、という考え。

 私自身はこの概念を哲学分野を学ぶ過程で知ってからというもの、その主張全てにおいて賛同しているのだが、近代の交流ツールでの一般人のやり取りでは反対意見との衝突も見られる。


 一角のやり取りによれば、
反出生肯定派「子供が生んでほしいと願っていることなんてわかりもしないのに、産み落とす以上は親の勝手な行為だ。子供が可哀想だ」
反出生否定派「どうやって子供が誕生の是非を答える?無茶なことを言うなよ。不満があるならさっさと自〇すればいい、それをせずにいるのは出生肯定派だからだろう」
反出生肯定派「痛みを恐れるのは当然だろう、生まれなければ苦痛も感じずに済んだ」


 …という感じで、読んでいて出産に関する価値観からして相容れない印象を抱いた。


 これに似た論議が今までに見た記事のコメント欄にも必ずといっていいほど存在した。はっきりと断言は出来ないものの、その意見の相違は経験のあるなしで分かれるのではないかと思う。
 分かり合えなくて病むのと同じだ。おそらく、早く人生を終わらせたいと願うほどの苦しみを感じたことのない人間なら、堂々と産みの親に感謝できるほどの幸せは感じているのだろう。
 反出生を唱える側の主張は殆どといっていいほど、本人がなんらかの持病を抱えていたり、目に見えない障害や生き辛さを抱えて、環境に馴染めずにいた人達が多いのだから。
 幼少期から虐待を受けて自己否定感を常に抱き、この世に絶望しか感じないまま生きてきた人間に対して「それでも産んでもらえたことには感謝すべきだ」などと言えるのか。一度も『生まれなかった未来』に希望を見出すこともない幸福な人間に実際に聞いてみたいものだ。


 最近特に注目している橘玲先生の著書にも、近年の少子化の事実と合わせ出生について語っている部分がよく見られる。
 曰く、(子供からして)人生のスタート地点が公平でない状態で始めさせられ、貧富の格差や遺伝的なステータスの違いを抱えているにも関わらず一律の教育を受け、不相応な出来具合のまま人生ゲームに放り出される……という内容。

 

公平とは、子供達が全員同じスタートラインに立ち、同時に走り始めることだ。
平等とは、足の遅い子供を前から、早い子供を後ろからスタートさせて全員同じくゴールさせることだ。
※『無理ゲー社会』意訳

 

 誕生する予定の子供の話とは少しズレるが、上記のように、人間には生まれつき能力が劣っている者や一部分に特化している者など、その他様々に得意分野が分かれている傾向が強いにも関わらず、労働社会では決まった能力だけが求められる。居場所を得る為には当然競争が生まれる。
 さて、遺伝的に劣っている人間が、努力では常人に叶わない事実がある上で、生まれた瞬間に強制的に参加させられる競争社会に納得できるだろうか?
 それが反出生主義の主張だ。

 肯定してしまえば生物としての繁殖、ひいては国家の維持に影響を与えかねないこの主義は「時代についていけなかった弱者のたわごと」として、注目されないというよりはあくまで精神性の問題として取り上げられない印象がある。
 ましてや否定派の意見からすると「そうして独身を貫いてもその種が絶滅するだけ、あとには繁殖したい種だけが残って全体的な総数は変わらない」とのこと。

 まぁ…たぶんそうなんでしょうけどね。日本も海外からの移住で米と同じようになってきているというコメも見たし、大災害で潰れない限りは国家自体の消滅は現実的ではない。
 個人的には国家の存続に焦点を当て、ここ10、20年不景気が続こうと将来的な繁栄のためには取るに足らない問題だと切り捨てられるとしても、もうちょっとこの理不尽な現実に目を向けてほしい、我々の声に耳を傾けてほしいと切に思う。

 

 

 たぶん、オタクの観点からして、有名な『ミュウツーの逆襲』のセリフ「誰が産めと頼んだ。誰が作ってくれと願った」はとてもわかりやすい主張だったんじゃないかな。